一生とは、人がこの世に生を受けてから死を迎えるまでの全期間を指す。また、危険な状況から辛うじて命が助かることを意味する場合もある。
人がこの世に生を受けてから死を迎えるまでの時間の流れを指し、またその過程における人間としての生活全般を意味する。
男性が自身をへりくだって言う一人称代名詞で、主に手紙文において同輩や目下の者に対して用いられる。
写生とは、風景や静物などの対象を目の前で観察し、そのままの姿を描き写すことを指す。絵画におけるスケッチを意味するが、短歌や俳句、文章においても、眼前の情景をありのままに描写する際に用いられる表現である。
国民の暮らしや生計に関わる事柄を指す。特に社会全体における人々の生活の安定や向上を意味し、政策や経済活動の重要な基盤となる概念である。
期待していたことや予定していたことが、都合よく進まない様子を表す。物事が思うように運ばず、折り悪く具合が悪いときに用いられる。
生口とは、口寄せにおいて巫女などが神懸かりの状態となり、生きている者の霊魂を呼び寄せ、その言葉を伝えることを指す。対義語は死口である。
生花(いけばな)とは、草木の枝や葉、花などを切り取って花器に挿し、自然の美しさを引き立てながら造形する日本の伝統芸術を指す。華道とも呼ばれ、植物の生命と季節の移ろいを表現することを重んじる。表記としては「活花」と書く場合もあり、「セイカ」と読む用法もある。
きびらとは、カラムシの繊維で平織りにした粗い麻布のことで、さらしや染色を施して、主に男子の羽織や甚兵衛などの夏の衣類に用いられる。
生馬はガガイモ科のつる性多年草で、山地に自生する。葉はハート形をしており、夏には白色の小花を咲かせる。実が熟すと裂け、中から白毛のついた種子を飛散させる。根は薬用として用いられ、「牛皮消」とも表記される。
生家とは、その人が生まれ育った家のことを指す。また、親や兄弟姉妹が暮らす実家という意味でも用いられ、婚家や養家と対比される概念である。
生涯とは、人が生まれてから死に至るまでの全期間を指す。また、特定の職業や活動に携わった期間を限定して指す場合もある。
蚕の繭から引き出したままの状態で、精練などの加工を施していない天然の糸を指す。絹織物の原料となる。
生還とは、死に直面するような危険な状況を脱し、無事に生きて帰ることを指す。また、野球においては、塁上の走者が本塁に戻り得点することを意味する。
漆の木から採取した後、精製や加工を施していない天然のままの漆液を指す。
生気とは、生命の躍動感や活力に満ちた様子を指し、人や物事が生き生きとしている状態を表す。活気に富み、生命力がみなぎっていることを意味する。
生酒とは、加熱処理を行わずに貯蔵・出荷される日本酒を指す。通常の清酒は火入れを経るが、生酒はその工程を省くことで、新鮮でみずみずしい風味とフレッシュな香りを保っている。
生きている魚、あるいは加熱調理されていない新鮮な魚を指す。鮮魚と同義で用いられることもある。
生類とは、この世に命あるもの、特に動物を指す言葉である。江戸時代の「生類憐みの令」のように、生きとし生けるものへの慈悲の対象として用いられる。
生渋とは、柿の実を搾ったままの状態で、他のものを混ぜずにそのままにした柿渋を指す。特に秋の時期に作られるものをいう。
生絹(すずし)は、精練していない生糸で織り上げられた絹布を指す。薄手で軽やかな風合いが特徴であり、主に夏物の衣料として用いられる。同義語に「きぎぬ」があり、「練絹(ねりぎぬ)」と対比されることもある。
生物が生まれ、成長する過程を指す。また、そのような成長を促す行為をも意味する。特に植物や作物が育つ環境や条件について用いられることが多い。
技術や表現、態度などが未熟でぎこちなく、自然さや柔軟性に欠ける様子を指す。特に文章や話し方、ふるまいなどにおいて、洗練されていない堅苦しさや不自然さが感じられる状態を表す。
生彩とは、生き生きとした鮮やかさや活気が感じられる様子を指す。特に表現や雰囲気などがみずみずしく輝きを放っていることを表し、その反対に活力や鮮明さが足りない場合は「生彩に欠ける」と表現される。「精彩」と書くこともある。
生前とは、人がこの世に生きている間、すなわち存命中の時期を指す。死後の状態と対比される概念であり、主に故人の生涯や事績について言及する際に用いられる。
生産とは、人間が自然の素材に手を加え、生活に必要な財やサービスを創り出す活動を指す。経済活動の基本となる過程であり、消費と対をなす概念として捉えられる。
生物がその場所で生存し、繁殖することを指す。特に動物や鳥類などが特定の環境に住みついている状態を表す場合に用いられる。
生きることと死ぬことを指す。また、そのような重大な局面を表す。仏教用語としては「ショウジ」と読み、生老病死の四苦の始めから終わりまでを意味する場合もある。
生熟とは、未熟なものと成熟したもの、あるいは経験の浅い者と豊かな者を併せて指す語である。特に、果物や農作物において熟し具合の異なるものを総称する場合や、人の技量や経験の程度に差があることを表す際に用いられる。
生態とは、生物が自然環境の中で生活している様子や状態を指す。また、転じて、ある社会集団や人々が置かれた環境における、ありのままの生活の実態や姿を表すこともある。
生色とは、生き生きとした顔色や元気のよい様子を指す。健康で活気に満ちた状態を表し、主に「生色を失う」などの表現で用いられる。
生誕とは、特に歴史上の偉人や著名人がこの世に生を受けることを指す。誕生と同義であるが、より敬意を込めた表現として用いられ、記念行事などに関連して「生誕百年祭」のように使われる。
生まれた土地、あるいは育った場所を指す。出生地や故郷を意味し、そこに墓を建てるなど、人生の根源として捉えられる。
生新とは、生き生きとして新鮮な様子を表し、生気に満ちあふれ、新たな息吹を感じさせるさまを指す。
生き生きとして活力に満ちた様子を表すとともに、万物が絶え間なく生まれ育ち、連綿と続いていく営みを指す。
新たな物事が生まれ出ること、あるいは作り上げることを指す。特に化学や生物学の分野において、新たな物質や化合物が作り出される過程を表す際に用いられる。
絵画や書などの表現が、まるで命が吹き込まれたかのように躍動感にあふれ、生き生きとしている様子を表す。
生鮮とは、魚介類や肉、野菜などの食品が新鮮で、生き生きとした状態を指す。特に鮮度が高く、みずみずしい様子を表し、生鮮食品売り場など流通の場面で用いられる。
生首とは、斬首刑などによって胴体から切り離された直後の、まだ生きているかのような生々しい状態の人間の首を指す。特に刑場でさらしものにされるような状況を連想させる語である。
生別とは、互いに生きながらにして別れることを指し、特に家族や親しい人々が生きている間に離れ離れになる状況を表します。死別とは異なり、相手がこの世にいることを前提とした別れであり、再会の可能性を残しつつも、長期間にわたる離別や消息不明の状態を含むことがあります。
生母とは、自分を産み育てた実の母親を指す語である。継母や養母など、血縁によらない母親と区別する際に用いられる。
生唾とは、美味しそうなものや酸っぱいものを見たとき、あるいは強い緊張を感じたときなどに、自然と口の中に湧き出てくる唾液のことを指します。
生面とは、これまで経験したことのない分野や方向を指し、新たな領域を切り開くことを意味する。また、初めて顔を合わせる人や初対面の状況を表す際にも用いられる。
生理とは、生物が生命を維持するために営む身体の諸機能やその仕組みを指す。また、特に女性の月経を指して用いられることもある。
生業(なりわい)とは、生計を維持するために従事する仕事や職業を指す。特に、家業として代々受け継がれてきた職業や、日々の暮らしを支えるための生計手段を意味する。例えば「農業を生業とする」のように用いられ、元来は「なりわざ」とも読み、生産活動や農業を表した語である。
生木とは、地中に根を張って生きている樹木を指す。また、伐採されたばかりで乾燥していない木材のこともいう。
生血(のり)とは、まだ乾ききらず粘り気を帯びた血液の状態を指し、血糊(ちのり)とも呼ばれる。また、「なまち」と読む場合もある。
先生とは、学問や技芸を教える人を指し、教師や師匠に対する敬称として用いられる。また、医師や弁護士など特定の専門分野に優れた人を敬って呼ぶ場合にも使われる。古くは先に生まれた者、すなわち年長者や先輩を意味したこともある。さらに、親しみやからかいを込めて用いられることもある。なお、「センジョウ」と読む場合は、仏教において前世を意味する。
再生とは、生命が息を吹き返すことや、新たな活力を取り戻すことを指す。また、過ちを改めて正しい生活を始める意味でも用いられる。さらに、廃棄物を再び利用可能な状態にすることや、録音・録画された音声や映像を機器で再び取り出すことも意味する。
多生とは、仏教の輪廻思想に基づき、生命が何度も生まれ変わることを指す。また、一つの命を犠牲にすることで多くの命を救うという意味もあり、特に「一殺多生」の形で用いられる。
早生とは、同種の野菜や果物などの中で、他の品種よりも早く成熟するものを指す。また、転じて、年齢の割に考え方や態度が大人びている子供や、早熟な人を意味することもある。
老生とは、年配の男性が自らを謙遜して指す語で、主に文章語や改まった場面で用いられる。
植物が人の手を借りずに自然の状態で生育すること。特に、本来の自生地において野生の状態で育つことを指す。
芝生とは、地面に草を一面に植え、刈り込んで整えられた場所を指す。主に庭園や公園、競技場などに設けられ、観賞や利用に供される。
余生とは、主に二つの意味で用いられる。一つは、人生の主要な活動期を過ぎた後の、老齢期における生活を指し、その時期をどのように過ごすかに焦点が当てられる。もう一つは、死までの残された生命そのものを指し、余命とほぼ同義で用いられる。
母体内で胚が卵の形で形成され、それが体外に産み出された後に孵化する生殖様式を指す。鳥類、爬虫類、魚類、昆虫など多くの生物にみられ、胎生や卵胎生と対比される概念である。
「学生」は「ガクショウ」と読み、律令制のもとで大学寮や国学、あるいは寺院などにおいて学問を修める者のことを指す。また、仏道を学ぶ僧を意味する場合もある。一方、「ガクセイ」と読む場合は、広く学業に励む者を指す。
弥生は陰暦三月を指す雅称で、草木が次第に生い茂る時期を表す。春の訪れを感じさせる季節の言葉として用いられる。
往生とは、元来は仏教用語で、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを指す。そこから転じて、死ぬこと、特に「大往生」のように安らかな死を表す場合にも用いられる。さらに意味が拡大し、諦めて受け入れることや、手に負えない状況に直面して閉口し困り果てる様子をも意味するようになった。
捕らえた生き物を自然に逃がし、その命を解き放つ行為を指す。特に仏教の慈悲の精神に基づき、殺生を戒め、功徳を積むための行いとして行われる。
厚生とは、人々の健康の保持増進と生活の安定向上を図り、より豊かな暮らしを実現することを指す。主に公衆衛生や社会福祉の分野で用いられ、職場や地域社会における保健・福利施設などを「厚生施設」と称する。
後生とは、後に生まれた人々を指し、特に自分より後の世代の人を意味する。また、学問や技芸などにおいて、自分より後に学び始めた後輩や後進を表すこともある。この語は「ごしょう」と読む場合には異なる意味を持つので注意を要する。
後生とは、死後の世界、すなわち来世を指す語である。また、その来世における安楽、特に極楽往生を願う意味でも用いられる。転じて、切実な願いを込めて人に物事を頼む際の呼びかけの語としても使われる。なお、「コウセイ」と読む場合は別の意味となる。
同じ根源から分かれて生じること。また、そのようにして生まれたもの。ある事柄や状態を起点として、新たな事象や概念が生まれる過程や結果を指す。
新たに生じること。また、物事が始まったり現れたりすることを指す。
相生とは、同じ根元から二本の木が分かれて育つことを指し、特に松の木にこのような生長様式が見られることから「相生の松」とも呼ばれる。また、同じように生まれ育った関係や、夫婦が共に長生きすることを意味することもある。夫婦の長寿を表す場合には「相老」と書くこともある。
母体内で胚が発育し、ある程度成長した後に子として体外に産み出される生殖様式を指す。哺乳類に代表されるが、一部の魚類や爬虫類などにも見られる。卵生と対比される概念である。
書生とは、主に近代以前の学生を指す古い呼称であり、学問に励む若者を意味する。また、他人の家に寄宿して家事の手伝いなどをしながら勉学に勤しむ者をも指す。
残生とは、特に高齢者が残された限られた人生の期間を指す。余生や残年と同義で、残りの人生を意味するが、より風雪を経た人生の終盤というニュアンスを含む。
殺生とは、生き物の命を奪う行為を指し、仏教においては十悪の一つとされる。また、転じて、無慈悲で残酷な様子や、行いがひどく厳しいことを喩える場合にも用いられる。
畜生とは、鳥や獣、虫や魚など、人間以外の生き物全般を指す言葉である。仏教の教えでは、前世に悪い行いを重ねた者が転生する世界とされる。また、激しい怒りや悔しさを込めて相手を罵ったり、自身の不甲斐なさを嘆いたりする際に発するののしりの言葉としても用いられる。
草木や毛などが、隙間なく込み合って生えている状態を指す。特に植物が群生して繁茂する様子を表す際に用いられる。
草木が群れをなして生えている様子を指す。漢字「簇生」の異表記として用いられる。
晩生とは、作物の品種において通常よりも遅く成熟する性質を指し、早生に対する概念である。また、先輩に対して自分を謙遜して言う語として、後から生まれた者という意味でも用いられる。
人がこの世に生を受けてから命を終えるまでの全期間を指し、一生や生涯と同義である。また、終身という意味も含み、ある状態や関係が死に至るまで続くことを表す。
転生とは、仏教の思想に基づき、死者が次の世において新たな生命として生まれ変わることを指す。輪廻の概念と深く結びついており、特に仏教用語としては「てんしょう」と読まれることもある。
動植物が人の手を介さずに自然の山野で生育する状態を指す。また、男性が自分を謙遜して言う語としても用いられる。
ある地域に生育する植物の集まりを指し、その種類や分布、生育状態を含む総体を表す。植物群落の構成や特徴を把握するための「植生調査」や、その結果を図示した「植生図」などの形で用いられる。
愚生は、男性が手紙などで自分をへりくだって言う語で、小生や拙生と同様に用いられる自称である。
健康を維持するために、飲食や生活習慣などにおいて身体に悪影響を及ぼす行為を控え、養い整えることを指す。病後の回復期や体調管理において重視される実践である。
新たに生まれること。また、信仰や心境の変化を経て、以前とは異なる新たな生活や人生を歩み始めることを指す。
同種の植物が一箇所に集まって生えている状態を指す。特に、山野など自然の環境において、多くの個体が密集して生育している様子を表す。
養生とは、身体を大切にし健康の維持や増進に努めることを指し、日々の生活において体調を整えるための実践を意味する。また、病気からの回復を図り、療養しながら体力を回復させるための努力も含まれる。
清潔を保ち健康の維持に努め、疾病の予防や治療を図ることを指す。生活環境や身体の清潔を管理し、公衆衛生の観点から社会全体の健全性を守る営みを含む。
出生(スイサン)とは、食事の際に鬼神や餓鬼に施すため、少量の飯を取り分けて屋外の屋根などに供える行為を指し、またその飯そのものをも意味する。生飯(さば)とも呼ばれる。なお、「サン」は唐音による読みであり、「シュッショウ」と読む場合は別の意味となる。
飾り気がなく、素直でひたむきな性格を表す。特に、職人などが一つのことに真摯に打ち込む様子を指して用いられる。
「生半」は、物事が十分に熟達せず中途半端な状態を指す。十分でない努力や未熟な状態を表し、不完全さや不十分さを含意する。また、中途半端に関わるよりはむしろ、という意味で、不完全な関わりを避けるべき場合に用いられることもある。
水中で生活する性質を指す。特に植物や動物が水環境に適応して生育・生息する様を表し、陸生に対する概念として用いられる。
生垣とは、生きた樹木を列状に植え、刈り込んで仕立てた垣根のことを指す。
ショウガ科の多年草で、熱帯アジアが原産とされる。根茎は独特の辛味と香りを持ち、食用や香辛料として広く用いられるほか、漢方薬の材料にもなる。別称としてハジカミやジンジャーがある。漢名に由来する語で、「ショウキョウ」と読む場合は別の意味を表す。
生禽とは、敵や獲物を殺さずに生きている状態で捕らえることを指す。戦場や狩猟において、相手を傷つけずに捕獲する行為を意味する。
生塵とは、台所から排出される生ごみのことで、調理くずや食べ残しなど水分を多く含む有機性廃棄物を指す。
生傷とは、できてからまだ間もない新しい傷のことで、十分に治癒していない状態を指す。古傷に対して用いられ、繰り返し負うような傷についてもいう。
男性が手紙などで自分を謙遜して指す語。世間の事情に疎く未熟な者という意味合いを含み、「小生」や「愚生」と同様に用いられる。
茅生とは、チガヤが群生している土地を指す語で、茅原とも呼ばれる。
埴生とは、粘土質の土壌が広がる土地を指す語である。特に、瓦や土器の材料となる良質な粘土を含む地帯をいうことが多く、転じて、そうした土を用いて築かれた質素な家屋を「埴生の宿」と表現する場合もある。
畢生とは、生涯を通じて、つまり生まれてから死ぬまでの期間を指す。特に、一生をかけて成し遂げる重大な事業や取り組みを形容する際に用いられる表現である。
草木が芽を出すことを指し、転じて物事の起こる兆しが現れること。例えば、殺意が萌生するといったように、ある感情や考えが生じ始める様子を表す。
陸地に生息することを指し、特に水中ではなく地上で生活する生物の性質を表す。水生や水棲に対比される概念で、陸上環境に適応した動物や植物などに用いられる。
他の人に頼って生活すること、あるいはそのような生活をしている人を指す。
死にかけたものが再び生き返ること。また、一度衰えたものが再び勢いを取り戻すこと。
葎生とは、葎(むぐら)と呼ばれる蔓草が一面に生い茂り、藪のようになった状態を指す。また、そのような場所そのものを表す語である。
蒼生とは、草木が青々と茂る様子に喩えて、多くの民衆や庶民を指す言葉である。
蔓生とは、植物の茎がつる状に伸びて成長することを指す。地面を這うように広がったり、他のものに巻き付いたりしながら生育する様態を表す。
蓬生とは、ヨモギなどの雑草が生い茂り、手入れが行き届かず荒れ果てた土地の様子を指す。特に春の季節に草が勢いよく伸びる情景を表す語である。
「簇生」は、多くの植物が群がり集まって生える様子を指す語である。また、「そうせい」とも読む。
多くの植物が群れをなして生えている様子を指す。密集して生えることで、互いに寄り添うように生育している状態を表す。
これまでにない新たな分野や方向性を切り開くことを指し、特に学問や芸術、技術などの領域で新しい方法や視点を創出する様を表す。
苦痛や苦しみを伴わず、安らかな最期を迎えることを指す。特に、長寿を全うし、平穏な死に方を遂げた場合に用いられる表現である。
「不生女」は、子を産むことができない女性を蔑んで指す語である。漢字表記として「石女」とも書かれる。
健康を維持するために必要な養生を怠ること。また、健康を損なうような行いを指す。
健康を保つための養生を怠り、自らの身体を大切にしないこと。特に、医者など養生の道理に通じている立場の者が、自らはそれを実践しないことを指して用いられる。
仏生会は、陰暦四月八日に行われる釈迦の誕生を祝う法会を指す。釈迦の像に甘茶を灌ぐ儀式が特徴で、花祭りや灌仏会とも呼ばれる。春の行事として定着している。
半夏生は、夏至から数えて十一日目にあたり、陽暦では七月二日頃を指す。この名称は、薬草である半夏(カラスビシャク)が生える時期に由来する。また、ドクダミ科の多年草である三白草(カタシログサ)の別名でもあり、水辺に自生し、夏に白い花穂をつける頃、花に近い葉の一部が白く変化する特徴を持つ。
地質年代区分において、太古代に続く時代を指す。約五億七〇〇〇万年前から約二億二五〇〇万年前までの期間に相当し、三葉虫やサンゴ、初期の脊椎動物など、多様な生物群が海洋を中心に繁栄したことで特徴づけられる。
生一本とは、混じり気のない純粋な状態を指し、特に酒造りにおいては水や添加物を加えずに醸造した純米酒を意味する。また、性格や態度においては、一つのことに真っ直ぐに打ち込み、曲がったことを嫌う素直でひたむきな気質を表す。
生意気とは、年齢や経験、立場に見合わないほど、出過ぎた言動をしたり、尊大な態度をとる様子を指す。特に、未熟であるにもかかわらず、一人前のように振る舞うことをいう。
物事が中途半端で不十分な様子を指し、徹底性を欠き、いい加減な状態を表す。
生兵法とは、武術や学問などにおいて十分に習熟していない状態を指し、中途半端な知識や未熟な技術に留まることを意味する。十分な鍛錬や修練を経ていないため、実際の場面では役に立たず、かえって危険を招くこともあるという含みを持つ。
生海布とは、海から採取したままの状態で、加熱や乾燥などの加工を施していない海藻を指す。
宝生流は能楽における主要な流派の一つであり、観世流や喜多流などと並んで伝統を継承している。特に室町時代に確立された五流のうちに数えられ、その芸風は重厚で優雅な表現を特徴とする。
往生際とは、死を前にした際の心境や態度を指す。転じて、物事を諦める時の潔さや、それに伴う態度の良し悪しを表す際にも用いられる。
捕らえた生き物を野に放ち、その功徳によって供養を行う仏教儀式。特に陰暦八月十五日(中秋)に行われる秋の行事を指す。
後生楽とは、死後の安楽な世界を信じて心を安んじることを指す。また、転じて何事にもとらわれず、のんびりと構えている様子をも表す。
成績や行いが特に優れているため、授業料の免除など特別な待遇を受ける学生を指す。
ヤドリギ科の常緑小低木で、サクラやエノキなどの落葉広葉樹の枝に寄生して生育する。早春には黄色の小花を咲かせ、後に赤色または淡黄色の実をつける。広義には、他の樹木に寄生して栄養を摂取しながら成長する植物全般を指し、「宿木」とも表記される。
寄生蜂とは、他の昆虫やその卵に自らの卵を産み付け、孵化した幼虫がその宿主を食料として成長する習性を持つ蜂類の総称である。宿蜂とも表記し、キセイばちとも読む。
落花生はマメ科の一年草で、南アメリカが原産地である。夏に黄色い花を咲かせ、受粉後には子房柄が伸びて地中に入り、さやを作って実を結ぶ。その種子は食用とされ、ナンキンマメやピーナッツとも呼ばれる。秋に収穫期を迎える。
微生物とは、肉眼では観察できないほど微小な生物の総称であり、細菌や菌類、原生動物などを指す。顕微鏡を用いて初めてその形態を確認できる生命体である。
これまでにない新しい分野や方面を指し、特に芸術や学問、研究などの領域で、従来にはなかった視点や方向性を切り開くことを意味する。
貯蔵されて時間が経ち、古くなった生姜の根茎を指す。辛みが穏やかになり、薬味や紅生姜などに用いられる。
壬生菜はアブラナ科の二年草で、葉はへら形をしており、独特の香気と辛味を持つ。主に漬物として利用され、その栽培の歴史は古く、京都の壬生地方に由来する。
生蕎麦とは、そば粉のみを用いて小麦粉などのつなぎを加えずに打った蕎麦のことで、そば本来の風味と食感が強く感じられるのが特徴である。
繭から生糸を取る際に発生する屑糸やくずなどを集め、乾燥させたものを指す。絹糸紡績の原料として用いられる。
脊椎動物の一群で、幼生期は水中で鰓呼吸を行い、成体になると肺呼吸によって陸上生活も営むことができる生物を指す。カエルやイモリなどがこれに属する。
九死一生とは、ほとんど死に瀕するほどの危険な状況から、かろうじて一つの命を取り留めることを意味する。九死は十中八九死に至る可能性を表し、一般に「九死に一生を得る」という形で用いられる。また、命を懸けて必死に事に当たる覚悟を示す場合にも使われる。
生きている動物の皮を剥ぎ、丸ごと飲み込むという意味から転じて、他人の詩文や考えを十分に理解せずにそのまま借用することを喩える表現である。
仏教に帰依する者が平素から抱く、この世を去って極楽浄土に生まれ変わろうとする願い。「往生」は現世を離れ浄土に生まれ変わることを、「素懐」は日頃からの心からの望みを意味する。
往生極楽とは、仏教において浄土に生まれ変わり、迷いのない安楽の境地に至ることを意味する。特に阿弥陀仏の極楽浄土への往生を指し、仏道修行の究極の目標とされる。
一人を犠牲にすることで多くの人々を救うことを意味する。仏教の経典に由来し、悪人を一人殺すことによって大勢の命を生かすやむを得ない選択を指す。転じて、より大きな利益や公益のために、小さな害や犠牲をやむなく容認する考え方も示す。