三余とは、学問に励むのに最も適した三つの余暇を指す。冬は一年の余り、夜は一日の余り、雨降りは季節の余りとされ、これらの時間を勉学に充てるべきだという考え方を表す。『三国志』に由来する故事に基づく表現である。
刑余とは、かつて刑罰を受けた経歴を持つことを指し、前科がある状態を意味する。特に「刑余の身」という表現で、過去に罪を犯し刑に服した者としての立場や身分を表す際に用いられる。
ある数量を超えて余りがある状態を指し、また数詞に後続して「…以上」「…余り」の意を表す表現である。例えば「二十年有余」とは、二十年を超える期間を意味する。
余暇とは、仕事や義務から解放され、個人が自由に使うことのできる時間を指す。休息や趣味、学習など、各自の意思で過ごすことができる時間帯を意味する。
立春を過ぎてもなお残る寒さを指す。暦の上では春を迎えたものの、実際には冬の寒さが続く時期の気候を表す。
余技とは、本業や専門とする分野以外に身につけた技芸を指し、主に趣味や娯楽として行われるものをいう。
大きな地震の後に引き続いて発生する、規模の小さい地震を指す。本震によって引き起こされた地殻の応力調整の過程で生じる揺り返しの現象である。
「余波」は風が止んだ後も静まらずに残る波を指し、また潮が引いた後も波打ち際に残る海水のことも意味する。転じて、ある出来事が過ぎ去った後に長く影響を及ぼす様子を表す際にも用いられる。読みは「なごり」のほか、「よは」とも読む。
余人とは、自分以外の他の人を指す語である。特定の人物や自分自身を除いた一般の人々を表す際に用いられ、「余人の追随を許さない」のように、他者が容易に及ばないことの強調にも使われる。また、「余人はいざ知らず」といった表現では、他の者はともかくとして、という対比の意を示す。
余薫とは、香りが消えた後にもわずかに漂い続ける芳香を指す。また、転じて、先人から受け継がれた恩恵や功績が後世にまで及んで、人々に幸福をもたらすことを意味する。
余威とは、物事を成し遂げた後に残る勢いや、先人が残した威光のことを指す。前者は余勢を駆って行動するような状態を表し、後者は過去の権威や影響力が後世まで及ぶ様をいう。
余計とは、必要以上に多い様子や程度が大きいことを指し、余分な状態を表す。また、無用でかえって邪魔になるものや、禁止されることでかえってその行為への欲求が強まる様子も意味する。
余慶とは、先祖が積み重ねた善行の報いとして、子孫が享受する幸福を指す。この概念は、祖先の徳が後の世代に良い影響をもたらすという考え方に基づいており、「積善の家に余慶あり」という成句でその意味が示されている。
余生とは、主に人生の後半を指し、活躍期を過ぎた後の生活を意味する。また、残された生命そのものを指す場合もあり、限られた時間をどのように過ごすかというニュアンスを含む。
余栄とは、人が亡くなった後にまで残る名誉や栄誉を指す。また、祖先が残した功績や恩恵が子孫に及ぶことを意味し、先祖の余光が後世を照らすような状況を表す。
余勢とは、何らかの行動を成し遂げた後に残る勢いや気力のことを指す。例えば、勝利によって高まった勢いをそのままに、さらに次の目標に向かって進むような場合に用いられる。
「余所」は、自分がいる場所や所属する範囲から離れた別の場所を指す。また、他人の家や家庭を意味することもある。さらに、自分自身とは直接関係のない事柄や状況を表す際にも用いられる。「他所」と表記される場合もある。
余輩は、一人称の複数を表す代名詞で、主に書き言葉において「われら」や「わたしたち」の意で用いられる。やや古風で格式ばった表現であり、現代の日常会話ではほとんど使用されない。
余沢とは、先人の善行や功績によって後世にまで及ぶ恩恵のことを指す。また、豊かさが余り、他にまで及ぶ恵みを意味することもある。
余談とは、話題の本筋から外れた雑談や挿話を指す。会話や文章の主要な内容とは直接関係のない話題であり、本題を離れた余分な話として扱われることが多い。
余憤とは、怒りや憤りの感情が完全には解消されず、心の中に残り続けている状態を指す。事態が一応収束した後も、晴れやかにならないもやもやとした怒りの感情が持続する様子を表す。
余徳とは、先人から受け継がれた徳の影響が後世にまで及ぶ恩恵を指し、また、豊かな恵みが周囲にまであふれ出て他を潤すような恵みをも意味する。
ある事柄が終わった後も長く残り続ける弊害や、ある出来事に伴って派生して生じる悪影響を指す。例えば戦争や自然災害などの主要な出来事が収束した後も、その影響が持続して社会や生活に問題を引き起こす場合に用いられる。
余熱とは、熱源が本来の機能を終えた後もなお周囲に残存する熱量を指す。例えば、燃焼が終わった炉や使用後の機械などから発せられる熱がこれに当たり、そのエネルギーを回収して再利用する場合にも用いられる表現である。
「余程」は、程度がかなり大きいことを表し、普通の状態をはるかに超えている様子を指します。また、何かを思い切って行おうとする気持ちや、その行動に至るまでの強い決意を示す場合にも用いられます。
余話とは、本筋から外れたあまり知られていない話や、こぼれ話のことを指す。特に政界や特定の分野における非公式な話題や、表立って語られないような逸話を意味する。余聞や余録と同様のニュアンスを持つ表現である。
剰余とは、ある数量から必要な分を取り除いた後に残る部分を指す。また、数学においては除法を行った際に完全に割り切れずに残る数のことを意味する。
酒に酔った状態にあること、またそのような状態で起こった事柄を指す。特に、酔った結果として生じた言動や出来事をいう。
窮余とは、苦境に追い詰められ、もはや他に手段がない状態に至ることを指す。窮地に陥った末の最後の手段や、苦しみの果ての様子を表す語である。
余戸とは、大化改新後に施行された律令制において、五十戸を一里とする行政区画を設定した際に、その定数を満たさない端数の民戸によって構成された小規模な集落を指す。また、辺境の地にある貧しい村落を指して用いられることもある。「あまるべ」とも読む。
余殃とは、祖先が行った悪事の報いとして、その子孫にまで及ぶ災いや不幸を指す。積悪の家に余殃ありというように、先代の罪過が後の世代に禍をもたらすことを意味する。
余醺とは、酒を飲んだ後に醒めきらずに残っている微かな酔いの状態を指す。酒気がまだ身体に漂っているような、かすかな陶酔感が持続している様子を表す語である。
余塵とは、車馬や人の往来によって巻き上げられる土煙のことを指し、転じて先人たちが残した業績や影響、その遺風を意味する。後塵を拝するという表現に用いられ、先行する者への敬意や、その流れを汲むことを表す。
余蘊とは、蓄えられたもののうち余った部分や、まだ使い切られていない残りを指す。また、全力を尽くした結果として何も残っていない状態を表す際にも用いられる。
余瀝とは、杯などに残ったわずかな液体のしずくを指す。また、転じて他人から受ける恩恵や情けを意味し、特に目上の人からの施しを謙遜して表現する際に用いられる。
川や丘などが曲がりくねって続く様子を表す。また、才知に富みながらも落ち着きがあり、穏やかな人柄を形容する際にも用いられる。
燃え尽きた後に残るもの、あるいは火災や戦乱などの災厄を生き延びた者を指す。前者は焼け跡や灰燼を意味し、後者は惨事を免れた生存者や、そのような人々の集団を表す。
王余魚はカレイ科の海魚の総称を指す語で、その漢名に由来する。一般に「かれい」とも呼ばれ、鰈と同義である。
余所見とは、本来注視すべき対象から視線を外し、別の方向を見る行為を指す。特に運転中など注意力が求められる場面で、不用意に周囲を見回すような危険なわき見を意味する。また転じて、周囲の人々が自分に対して向ける視線、すなわち世間の目や評価を指す場合もある。
ヤマノイモなどの葉の基部に形成される球状のむかごは、養分を蓄えた小さな芽であり、食用とされる。植物学では珠芽や肉芽とも呼ばれる。
紆余曲折とは、物事の経緯や過程が複雑に入り組み、幾重にも曲がりくねっている様子を表す。単純に説明できないほどに込み入った事情や、困難を伴う道筋を指し、時に「迂余曲折」とも書く。
余裕綽綽とは、心にゆとりがあり、焦ることなく落ち着き払っている様子を表す四字熟語である。『孟子』に由来し、物事に追われることなく、ゆったりと余裕のある態度や心境を指す。
余韻嫋嫋とは、音や声が消えた後も長く細く尾を引いて響き続ける様子を表す。また、詩文や出来事の情趣・風情が、過ぎ去った後にもなお心に残り、いつまでも感じられるような状態をも指す。「嫋嫋」は音が絶えずに細く長く続くさまを意味し、同様の表現に「余音嫋嫋」がある。
物事を処理する際に余裕をもって対処できる様子を表す。『荘子』「養生主」に由来し、熟練した庖丁が刃を自由に動かして骨の隙間を切り分ける故事から、困難な事柄でも手際よく処理できるたとえとして用いられる。
積善余慶とは、善行を積み重ねることで子孫にまで幸福が及ぶという意味の四字熟語である。『易経』に由来し、善い行いを継続することによって、その報いは本人だけでなく後代にも良い影響を及ぼすという教えを表している。
積悪余殃とは、悪事を重ねると、その報いとして子孫にまで災いが及ぶという意味の四字熟語である。『易経』の「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり」という一節に由来し、善悪の行いが後世に影響を及ぼす因果応報の道理を説いている。
歯牙余論とは、取るに足らない些細な議論や、価値のないつまらない意見を指す四字熟語である。『南史』に典拠を持ち、歯や牙のように取るに足らないもの、あるいは余計な論という意味から、重要でない雑談や批評を表す。