事が起こる前に、その成り行きや結果を見通すこと。未来の状況を推測し、あらかじめ認識することを指す。
身分や地位が高い者が、目下の者を呼び寄せて面会することを指す。
必ず見るべきもの、あるいは見る価値のあるものを指す。特に、見逃すことが惜しまれるような優れた内容や、重要な機会に対して用いられる。
先見とは、物事が起こる前にその成り行きや結果を見通す能力を指す。将来を洞察し、未然に予測することを意味し、優れた判断力や洞察力に基づく見通しの明るさを表す際に用いられる。
巡見とは、特定の地域や場所を順に訪れて視察することを指す。特に役人や監督者が管轄区域を回り、状況を確認する行為を意味し、巡視と同義で用いられる。
曲見は能面の一種で、中年の女性を表す面である。主に狂女物などの演目で用いられ、顔の中央部が窪んで見える特徴からこの名が付けられた。
延見とは、目上の者が目下の者を呼び寄せて面会することを指す。特に、君主や高貴な身分の者が臣下や来訪者に対面する際に用いられる表現である。
形見とは、亡くなった人や別れた人が遺した品々のうち、それを見るたびにその人の面影を偲ばせるものを指す。また、かつての出来事や時代を思い起こさせる記念の品を意味することもある。
春に咲く花、特に桜を鑑賞しながら楽しむ行事を指す。古くから日本の風物詩として親しまれ、野外で飲食を共にしながら花の美しさを愛でる習慣がある。
物事に対する考え方や判断、またそれに基づく意見を指す。個人の立場や経験によって形成される独自の観点を表す。
見所は、芝居や相撲などの見物席、あるいはそこに座る観客を指す言葉である。また「ケンショ」と読む場合もある。
書物や譜面などを置いて読むための台で、主に書見台として用いられる。
見目とは、目に見える外観や様子を指す。特に人の顔立ちや容姿の美しさを表す際に用いられ、整った容貌を「見目うるわしい」などと表現する。また、世間に対する体裁や面目という意味でも使われ、人の目を気にする様子を「見目を気遣う」と言う。同じ読みで「眉目」と書くこともある。
物事を観察する方法や視点を指す。また、ある事柄に対する考え方や解釈の仕方、つまり見解を意味する。
見当とは、物事の大まかな予測や推量を指し、見込みや当て推量の意味で用いられる。また、おおよその方向や位置を示す場合にも使われる。さらに、数詞に付いて大体の数量を表す表現としても機能する。
見事とは、技量や成果が優れており、賞賛に値する様子を指す。また、物事が完全な形で成し遂げられるさまや、逆に完全に失敗するさまをも表し、後者の場合には皮肉を込めた表現となることもある。「美事」と書くこともある。
見頃とは、草木の花や紅葉などが最も美しく鑑賞に適した時期を指す。特に季節の風物がその最盛期を迎え、見る価値が最高に達した状態を表す言葉である。
見番は、芸者置屋の事務を取り扱う場所を指し、芸者の手配や料金の計算などの業務を行った。表記は「検番」と書かれることもある。
見物とは、名所旧跡や催し物などを見て楽しむことを指す。また「みもの」と読む場合は、見る価値のあるものや様子を意味する。
見世とは、商品を並べて客に見せ、売る場所を指す。商店や店舗の意味で用いられ、商売そのものを表す場合もある。表記としては「店」とも書く。
実際に現場に赴き、状況や状態を直接確認して調べることを指す。特に、土地や物件、事故現場などの実地調査を意味する場合が多い。
城の外門に設けられた見張り所を指し、主に警備の兵士が配置されて城門周辺の監視や警戒に当たった。江戸城の赤坂見付などがその例として知られる。
怒りや興奮によって険しくなった顔つきや態度を指す。相手を威圧するような激しい表情や様子を表し、「剣幕」や「権幕」とも表記される。
見習とは、実際に目で見て技術や知識を習得することを指す。特に職業の分野では、実地に業務に従事しながら経験を積み、一人前の技能を身につける過程や、その期間中の者を意味する。例えば料理人の世界では、板前としての修業期間中の者を「板前の見習」などと呼ぶ。
見料とは、手相や人相などの占いを受ける際の対価、あるいは演劇や興行などの催し物を観覧するための費用を指す。
卓見とは、物事の本質を鋭く見抜いた優れた意見や考えを指す。特に学問や議論の場において、深い洞察に基づく見解を意味する。
卑見とは、自分の意見を謙遜して述べる際に用いる語で、取るに足らない考えや浅はかな見解を意味する。表記としては「鄙見」と書くこともある。
定見とは、確固とした自らの考えや判断を指し、十分な考察や経験に基づいて形成された揺るぎない見識を意味する。
所見とは、目で見た事柄や状況を指すとともに、それに基づいて形成された考えや判断をも意味する。例えば医師が患者を診察した際の観察内容を「診察所見」と言い、ある事象に対する個人の見解を示す場合にも用いられる。
「拝見」は、相手に対して敬意を表し、謹んで見ることを意味する謙譲語である。目上の人の物や作品、文書などを見せていただく際に用いられ、「拝読」「拝覧」と同様に、行為の対象となる相手を高める表現である。例えば、「お手並みを拝見する」のように使われる。
披見とは、封書や文書などを開封し、その内容を目を通すことを指す。特に手紙や書状などに対して用いられ、相手に読んでいただくことを丁寧に依頼する際の表現としても使われる。
物見とは、見物をしたり眺めたりする行為を指す。また、戦場において敵の様子や動きを探る役目、あるいはその役目の者を意味し、斥候と同義で用いられる。さらに、遠方を見渡すために設けられた高い建造物である物見櫓の略称としても使われる。
知見とは、実際の経験や観察を通じて得られた知識や理解を指し、また物事に対する深い洞察や見識を意味する。広く見聞を広めるという意味でも用いられ、仏教用語としては智慧によって得られた認識や悟りを表すこともあり、その場合「智見」と書くこともある。
後見とは、年少者や無力な者を助け、支える行為を指す。法律の分野では、親権者のいない未成年者を保護し、その財産を管理する制度を意味する。また、舞台芸術においては、役者の背後で小道具の受け渡しや衣装替えを補助する役割を担う者を指し、黒子とも呼ばれる。
政治に関する個人や団体の見解や主張を指し、特に政治家や政党が政策や統治理念について公に示す立場を意味する。
浅見とは、物事の本質を深く捉えられない浅はかな考えや意見を指す。また、自らの意見を控えめに述べる際の謙譲語としても用いられる。
それまで知られていなかった物事や事象を、初めて見出したり、気づいたりすること。
脇見とは、本来注視すべき対象から視線を外し、傍らや他の方向を見る行為を指す。特に運転中など注意力が求められる状況で、前方から目を離す危険な行為として用いられる。
高見とは、優れた見識や意見を指す言葉である。また、相手の意見を敬って言う場合にも用いられ、例えば「ご高見を承る」などの形で使われる。高説と同義の表現としても扱われる。
遠く離れた場所から対象を眺め見ること。特に、遠方の景色や事物を視界に収める行為を指す。
細見とは、物事を注意深く詳細に観察する行為を指す。また、転じて、詳細に描かれた絵図や地図、あるいは詳しい案内書といった意味も持つ。
短見とは、物事を深く考えずに至った浅はかな考えや、見識の足りない意見を指す。思慮が浅く、大局を見通せない未熟な判断を意味し、しばしば自らの認識の狭さを恥じる文脈で用いられる。
達見とは、物事の本質や将来の成り行きを深く見通す優れた見識を指す。単なる知識の豊富さではなく、洞察力に裏打ちされた確かな判断力や、広い視野に立った道理の理解を含む表現である。
愚見とは、愚かな意見や考えを指す。また、自らの意見をへりくだって述べる際の謙譲語としても用いられる。
遠見とは、遠方まで見渡すことを指し、広く遠くを眺める意味を持つ。また、高い場所から敵の動静を監視する軍事用語としても用いられる。演劇や絵画においては、遠景を表現した背景を指す場合もある。
管見とは、管の穴を通して物を見るように限られた狭い見識を指す。転じて、自身の意見や見解を謙遜して述べる際に用いられる表現であり、「管見によれば」などの形で用いられる。
総見とは、相撲や演劇などの興行を、特定の団体や組織の全員が揃って観覧することを指す。例えば、横綱審議会の委員が力士の稽古を一斉に見学するような場合に用いられる表現である。
隠見とは、物が隠れたり現れたりする様子を指す。例えば、波の間から船が隠見するような情景に用いられる。また、「インゲン」と読む場合もある。
身分や地位の高い人に公式に面会することを指す。特に君主や高官などに対し、敬意を込めて会う場合に用いられる。
臆見とは、十分な根拠や確証がないままに憶測で立てられた考えや意見を指す。当て推量に基づく判断であり、確かな裏付けを欠いている点が特徴である。なお「おくけん」と読まれることもある。
物事の本質を深く見通し、適切な判断を下すことのできる能力や見解を指す。長年の経験や思索によって培われた洞察力に基づく、確かな物の見方を意味する。
隠していた秘密や悪事などが、外部に知られてしまうこと。
一見とは、初めて対面すること、あるいは初めて訪れる客を指す。特に旅館や料亭などで、初めて来店した客をいう場合に用いられる。読みは「イチゲン」であり、「イッケン」と読む場合は別の意味となる。
見栄とは、実際の自分よりも良く見せようと、外面を飾り立てることを指す。他人の目を意識した虚栄の振る舞いであり、「見栄を張る」などの表現で用いられる。なお、「見得」と表記するのは当て字である。
見所とは、見る価値のある部分や場面を指し、特に芸術作品や行事などにおいて最も見応えのある箇所を意味する。また、将来の発展が期待できる可能性や素質を表し、人や物事の将来性を評価する際にも用いられる。
検見とは、かつて年貢の徴収率を定めるために、役人が稲の収穫前に田畑を巡って生育状況を実地に調べることを指す。秋の字を当てて「毛見」と表記することもあり、「ケンみ」と読む場合もある。
鄙見とは、自分の意見を謙遜して述べる際に用いる語で、文字通り「取るに足らない私の考え」という意味を表します。表記としては「卑見」と書くこともあります。
物事の一部や一端を垣間見ること。また、わずかな兆候から全体の様子を推し量ることを指す。
誤った考えや判断を指す言葉で、物事に対する認識や解釈が正しくない状態を表します。特に学問や議論の場において、根拠に欠ける意見や偏った見方を意味し、表記としては「繆見」と書くこともあります。
一見識とは、ある分野において独自の深い考察に基づく確固たる見解や、優れた判断力を指す。単なる知識の豊富さではなく、物事の本質を見極める鋭い洞察力と、それに裏打ちされた確かな考え方を意味する。
「不見転」とは、花札の遊び方の一つで、相手や状況を考えずに手元の札を出すことを指す。そこから転じて、物事の前後を考えずに行動する様子を表し、特に金銭次第で誰にでも身を任せる女性の振る舞いや、そのような女性を指すこともある。
余所見とは、本来注視すべき対象から視線を外し、別の方向を見る行為を指す。特に運転中など集中を要する場面で危険を招くわき見を意味する。また、周囲の人間から見られる立場や評価を表し、人目を気にする文脈でも用いられる。
見風乾はカバノキ科の落葉高木を指す語で、その名称は漢名に由来する。同種の赤四手(あかしで)とも呼ばれる。
芝居や芸能などの見物において、観賞の仕方に熟達していること。また、そのような鑑賞眼を持つ人を指す。
見世物とは、入場料を徴収して曲芸や奇術、珍しい事物などを公に展示し、観客に見せる興行を指す。また、多くの人々の好奇や興味の対象として、一種の展示物のように扱われることを意味する場合もある。
無定見とは、物事に対する明確な判断基準や確固たる自説を持たず、その場の状況や他人の意見に流されやすい態度を指す。
綿津見は、日本神話における海の神を指す語であり、転じて海そのものを意味する場合もある。古くは「わだつみ」とも読み、「海神」の表記も用いられる。
顔見世とは、新たに結成された一座の役者が観客に初めて顔を見せることを指す。特に歌舞伎や演劇において、新年度の初めに役者総出で挨拶し、その年の顔触れを披露する興行を意味し、「顔見世興行」の略称としても用いられる。
目論見とは、何かを実現しようとする計画や企てを指す。特に、周到に考えられた意図や策略を含む場合が多く、しばしばその成否に対する評価を伴って用いられる。
風見鶏は、屋根の上などに設置され、風向きを示すために用いられる鶏の形をした器具を指す。また、転じて、自身の確固たる信念を持たず、時流や周囲の状況に応じて態度や意見を容易に変える人物を喩える表現としても用いられる。
寡聞少見とは、見聞きしたことが少なく、知識や経験が狭いことを意味する四字熟語である。世間知らずで見識に乏しい様子を指し、謙遜の意を込めて自身の未熟さを述べる際にも用いられる。
「寡見少聞」とは、見聞きする機会が少なく、知識や経験が乏しい様子を表す四字熟語である。『漢書』匡衡伝に典拠を持ち、世間の事物に触れる範囲が狭く、それゆえに物事に対する理解や見識が十分でない状態を指す。
「開心見誠」とは、心を開いて隠し立てせず、誠意をあらわにすることである。胸襟を開き、偽りのない真心を示す様子を表す四字熟語で、『後漢書』馬援伝に由来する。
「開雲見日」は、暗雲が晴れて太陽が現れる様子から、長く続いた苦難や不安が去り、明るい希望が訪れることを表す四字熟語である。また、積もった疑念や誤解が解けて、真実が明らかになる喩えとしても用いられる。出典は『後漢書』「袁紹伝」にあり、「雲を開きて日を見る」と訓読する。
一水四見とは、同じ一つの水であっても、それを見る者の立場や心のありようによって全く異なるものとして認識されることを表す四字熟語である。例えば、天人には宝の池に映える瑠璃の如く、人間には飲み水に、餓鬼には膿血に、魚には住処に見えるという仏典の喩えに由来し、主観によって対象の捉え方が変わる相対性を説く。
物見遊山とは、祭りや行事を見物したり、山野に遊びに出かけたりして、気分転換を図る行楽を指す。日常を離れて景色を楽しみながら遊ぶ、気軽な外出や小旅行の趣を表す言葉である。
百聞は一見に如かずとも言い、何度も人から聞くよりも、一度実際に自分の目で確かめる方が確かであるという意味を表す。『漢書』趙充国伝に由来する四字熟語である。
撥雲見日は、雲を払いのけて太陽を見るように、迷いや疑念が晴れて物事の真相や道理がはっきりと理解できるようになることを意味する四字熟語である。『晋書』「楽広伝」に由来し、複雑な状況や不明瞭な問題が解決され、明るい見通しが得られる様子を表す。
左見右見とは、あちらこちらと注意深く見回す様子を表す。周囲の状況を確かめたり、物事を様々な角度から慎重に観察したりする際に用いられる表現である。