細部にまで注意を払い、念を入れて行う様子。注意深く丁寧に物事を行うさまを表す。
細部にまで心を配り、注意深く丁寧に行う様子を表す。物事を仕上げる際などに、隅々まで気を配り、手を抜かない態度を指す。
失念とは、うっかりと物事を忘れてしまうことを指す。特に、本来覚えているべき事柄を思い出せない状態を表し、度忘れに近い意味合いを持つ。
常に心に抱いている考えや気持ちを指す。特に、人に対して述べる場合に用いられ、所信や意向を表す。
妄念とは、誤った考えや道理に合わない思い込みを指し、特に執着や迷いから生じる心の状態を表します。物事に対する正しい判断を妨げ、平静な心を乱すような雑念や邪念を意味し、仏教では悟りを妨げる煩悩の一つとされています。
邪念とは、道徳に反する不純な考えや、よこしまな心の動きを指す。また、必要のない雑念や、心を乱す余計な思いを意味することもある。
長い間心に抱き続け、その実現を強く望んでいる願いのこと。
念珠は、仏教において念仏を唱える際に用いる数珠のことで、珠を繰りながら仏名を称える修行に使われる。
念頭とは、心の中や考えの中心を指す語である。常に意識していることや、心に留めている事柄を表し、「念頭に置く」などの形で用いられる。
念仏とは、仏の名号を口に出して唱える修行を指し、特に浄土教においては阿弥陀仏の名を称えることを意味する。
放念とは、心配や気がかりを捨てて安心することを指す。主に手紙などの文面において、相手に心配をかけないよう伝える挨拶語として用いられる。
神仏に対して心を込めて願いをささげること。また、ある事柄の実現や状態の持続を強く願う気持ちを込めて、それを思い浮かべること。
固く信じて疑わない心のあり方。また、そのような確信に基づく考え方や信条を指す。
他のことを考えずに一つのことに心を集中して励むこと。
怨念とは、深く心に刻まれた恨みや憎しみの感情を指し、長い時間を経ても消えずに残る執着を伴うことが多い。
常に心に留めて思い続けること。ある人や物事、情景などを絶えず思い巡らし、心の中で強く思うことを指す。
残念とは、期待が外れたり望んでいたことが実現しなかったりして、心に物足りなさや悔しさが残る様子を表す。特に、何かを成し遂げられなかったことや、好ましくない結果に対して抱く、無念さや惜しいという感情を指す。また、人との別れや機会を逃した際の名残惜しさや未練がましい気持ちを表現する際にも用いられる。
思い出として心に留めておくこと、またその対象となる物や行事を指す。過去の出来事や人物を回想し、記憶を新たにする意図を持つ行為や、そのために作られた品物などにも用いられる。
ある物事に対して深く心に留め、それを強く思い続ける気持ちを指す。特に、強い思い入れやこだわりが長く持続し、簡単には忘れられない心情を表す。
断念とは、それまで抱いていた願望や計画を、心を決めて諦めることを指す。強い意志をもって思い切りをつけ、それ以上の執着を捨て去る心境や行為を表す。
欲念とは、何かを手に入れたいという強い願望や、むさぼり求める心の動きを指す。特に、度を越した欲求や執着を伴う場合に用いられ、しばしば捨て去るべきものとして捉えられる。
無念とは、心に何の思いも抱かない無我の境地を指す。また、強い悔しさや残念な気持ちを表し、その感情を晴らしたいと思うような状況にも用いられる。
疑念とは、物事の真偽や確実性について抱く疑問や不審の気持ちを指す。ある事柄が本当であるかどうか確信が持てず、心に引っかかる思いをいう。
雑念とは、ある物事に集中しようとする際に生じる、本筋から外れた余計な考えや思いのことを指します。これらは精神の統一を妨げ、注意を散漫にする性質を持ちます。
黙念とは、声を出さずに静かに思いを巡らせることを指す。心の中で深く考え込んだり、特定の事柄について沈黙のうちに思索をめぐらせたりする状態を表す。
心に深く刻み込まれ、いつまでも忘れ去ることのない強い思いを指す。執念に近い概念であり、表記としては「臆念」と書かれることもある。
懸念とは、ある物事の成り行きや結果に対して不安を抱き、心配する気持ちを指す。また、特定の対象に心を留め、深く考え続けることを意味する場合もある。
念誦とは、心に仏を思い浮かべながら、口に出して仏の名号や経文を唱えることを指す。念仏や誦経の行為を総称する語であり、「ねんず」と読む場合もある。
軫念とは、心を痛めて思い悩むこと、あるいは深く心配することを意味する。特に、君主が臣下や民のことを気遣い、心を痛める様子を指して用いられることもある。
正念場とは、歌舞伎や浄瑠璃において主人公の真価が最も強く発揮される重要な場面を指す。転じて、物事の成否がかかる最も重大な局面や、真の力量が試される場面を意味する。「性念場」とも表記する。
朴念仁とは、口数が少なく無愛想な様子を指すとともに、人情や道理に疎く、頑なで融通のきかない人物を意味する。
物事を始めようと最初に心に決めた思いや、当初に抱いた志を指す。
空念仏とは、心を込めずに口先だけで唱える念仏を指す。転じて、実際の行動を伴わず、言葉だけの主張や約束を意味する。例えば、実行されない公約などに対して用いられる。
ある出来事や人物を後世に伝えるため、あるいはその功績を称えるために建立される石碑や建造物を指す。除幕式などの行事を伴うことも多い。
休心息念とは、心を休め、思いを静めることを意味する四字熟語である。『正法眼蔵』に典拠を持ち、煩わしい雑念や執着から離れ、心を落ち着かせて安らぎを得る境地を表す。
既成概念とは、すでに社会や集団において広く受け入れられ、固定化された考え方や認識の枠組みを指す。人々が無意識のうちに前提とする価値観や物事の捉え方であり、新たな発想や創造を妨げる要因となることもある。
仏教用語に由来し、もとは仏門に入り悟りを開こうと固く決心することを指した。転じて、何かを成し遂げようと強く心に誓い、思い立つことを意味する。
一念万年とは、一瞬の思いが永遠に続くかのように感じられるほど、その思いが深く強いことを表す四字熟語である。仏教においては、一瞬の信心がそのまま永遠の救いにつながるという教えに基づく表現としても用いられる。
一念通天とは、一つのことに心を集中して専念すれば、その思いは天に通じ、不可能と思えることさえも成し遂げられるという意味の四字熟語である。
一念三千とは、天台宗の教義に基づく仏教用語で、一瞬の心の中に宇宙全体のありとあらゆる現象が含まれているという世界観を表す。『摩訶止観』に説かれるこの概念は、微細な一念と広大な三千世界が相互に浸透し合い、切り離せない関係にあることを示している。
一念化生とは、仏教において一つの念いがそのまま形となって現れることを指す。特に、極楽浄土においては、蓮華の中から一瞬にして仏の姿が生じるという、阿弥陀仏の本願力による往生のあり方を表す語である。
浄土真宗の教えにおいて、阿弥陀仏への深い信心を起こし、その一つの念仏によって極楽浄土へ往生することを確信することを指す。
臨終正念とは、死を目前にした際に心が乱れることなく、安らかに往生を信じる清らかな心境を指す四字熟語である。
無想無念とは、一切の思考や雑念を離れ、心が空っぽで何も考えていない状態を指す。仏教の瞑想や修行において理想とされる心境で、あらゆる執着や分別を捨て去った無我の境地を表す。