邪教とは、人々の心を惑わせる誤った教義を掲げる宗教を指し、社会に害毒を流すような性質を持つものをいう。正しい教えから外れた異端の宗派を意味する。
邪宗とは、正統とされる教えから外れ、社会や人心に害を及ぼすと見なされる宗教、またその教えを指す。特に江戸時代においては、幕府によって禁制とされたキリスト教を指して用いられた。
邪推とは、物事を素直に受け止めず、偏った見方や悪意のある解釈で推し量ることを指す。例えば、他者の言動や関係性を不当に疑ったり、根拠なく悪い方向に考えるような場合に用いられる。
邪道とは、正しい道から外れた不正な方法や手段を指し、人として踏み行うべき道理に反する行いを意味する。また、正統な教えから逸脱した邪教を指す場合もある。
邪念とは、道徳に反する不純な考えや、よこしまな心の動きを指す。また、必要のない雑念や、本筋から外れた余計な考えに惑わされる状態をも表す。
邪気とは、古来より病気や災いをもたらすとされる不吉な気を指す。また、転じて悪意や害意といった心のねじけた様を表し、時には風邪の症状を引き起こすものとも考えられる。
風邪とは、主にウイルス感染によって引き起こされる呼吸器系の疾患を指し、咳や鼻水、喉の痛み、発熱、頭痛、全身の倦怠感などの症状を伴う。一般に感冒とも呼ばれ、季節の変わり目や冬季に罹患しやすい。
邪揄とは、相手をからかったり、あざけったりすることを指す。特に、人の言動や社会の現象などを皮肉を込めて軽く笑いものにする場合に用いられる。表記としては「揶揄」と書くこともある。
邪険とは、人に対して意地悪く冷たく接する様子を指し、思いやりや情けを欠いた無慈悲な態度を表す。特に、相手を軽んじたり疎んじたりするような扱い方を形容する際に用いられる。
心がねじけて人に媚びへつらい、こびへつらうことを指す。また、そのような性質を持つ人や、そのような態度そのものを表す。
悪意や作為がなく、素直で純粋な心の状態を表す。子供らしいあどけなさや、飾り気のないかわいらしさを含意し、無心で物事に取り組む様子にも用いられる。
奸佞邪智とは、心根がねじけており、不正な手段に長けた悪知恵を備えているさまを表す四字熟語である。主に、人を欺くようなずる賢さや、邪悪な意図に基づく狡猾な才知を指して用いられる。
悪い行いを改めて正しい道に立ち返ることを意味する四字熟語。これまでの非行や過ちを悔い改め、社会の規範や道徳に従った生き方へと方向を転じる様子を表す。
正統とされる教説から外れた、道理に背いた学説や思想を指す。特に儒教において聖人の道とは異なる邪な教えを意味し、『宋史』程顥伝にも見える表現である。
翻邪帰正とは、誤った考えや邪な道から離れ、正しい道へと立ち返ることを意味する四字熟語である。仏教においては、邪な教えや迷いを捨てて、仏の正しい教えに帰依することを指し、特に『往生要集』では、浄土への往生を願う者がなすべき心構えの一つとして説かれている。
放辟邪侈は、わがまま勝手で道を外れた行いを指す四字熟語である。放はほしいままに振る舞うこと、辟は偏って正しくないこと、邪はよこしまなこと、侈は度を越した贅沢を意味し、これらが合わさって、道理に背き身勝手な振る舞いを表す。『孟子』に見られる語で、「放僻邪侈」とも書く。
ねいかんじゃちとは、人を欺くようなずる賢さと、心のねじれた悪知恵を併せ持つ様を表す。口先が巧みで人に取り入る「佞」、心が曲がり邪な「奸」や「邪」、悪事に長けた知恵「智」の四字から成り、表面上は聡明に見えながら、内面では私利私欲のために他人を陥れようとする狡猾な性質を指す。