一如とは、真理が様々な形で現れてもその本質は一つであることを指す。また、二つに分けることのできない一体性を表し、例えば心と身体が渾然一体となる境地や、物質と精神が融合した状態をいう。
あるべきものや必要なものが足りない状態を指す。また、文字や語句が欠けていることを表す場合にも用いられ、この意味では「欠字」と同じである。表記としては「闕如」と書くこともある。
事実をありのままに捉える様子を表し、物事の本質や真実がそのまま現れることを意味する。また、仏教用語としては一切の事物の真実のあり方を指し、真如と同義で用いられることもある。
仏の教えに従って道理にかなっていること、あるいはその様子を指す。また、性質が穏やかで温厚であることを表すこともある。さらに、元来や全くといった意味でも用いられる。
「如何」は物事の成り行きや様子を指し、状況や結果がどうであるかを表す。また、方法や手段を問う意味でも用いられ、どのようにすべきかという疑問や、どうにもならない状態を示す場合もある。「いかが」や「どう」と読む場合は別の意味となる。
如来とは、仏に対する尊称であり、真理を悟り、衆生を救済する者を意味する。釈迦如来のように、仏陀の称号として用いられる。
如月は陰暦二月の異称で、寒さが続き衣類を重ね着する時期であることから「衣更着」とも表記される。春の訪れを感じつつも、なお厳しい寒さが残る季節を指す言葉である。
先に述べた事柄や内容を指し示す表現。文章や会話の中で、前に触れた話題や指示を簡潔に参照する際に用いる。
「如何」は「どう」と読み、「いかが」と同じ意味で用いられる。物事の状態や様子、方法などを尋ねる疑問の意を表す語である。
如去とは、如来の別称であり、仏教において真理を体得し、悟りの世界からこの世に現れた仏を指す語である。
「何如」は物事の様子や状態を指し、またそのあり方や方法を尋ねる際に用いられる。事柄の成り行きや状況を表す場合と、どのようであるか、あるいはどのようにすべきかを問う場合がある。例えば、理由の如何によらず、あるいは如何せん火の回りが速すぎた、といった表現で使われる。表記としては「如何」や「奈何」と書くこともある。
突如とは、何の前触れもなく急に物事が起こる様子を表す。予期せぬ事態が突然発生する際に用いられ、主に書き言葉として使われる。
勃如とは、急に怒りが込み上げて表情や態度に表れる様子を指す。突然の怒りのために顔色が変わり、むっとした気配を漂わせる状態を描写する語である。
蔑如とは、他者を軽んじ見下すことを指す。相手を価値の低いものとして扱い、尊重に欠ける態度を表す語である。
躍如とは、物事が生き生きと目の前に現れているかのように鮮明に感じられる様子を表す。絵画や描写において対象が躍動感をもって描かれている場合や、人物の本質が明らかに表れている状況などに用いられる。
前述の事柄や状態を指し示し、その内容がまさにこの通りであることを示す表現である。
晏如とは、心にわだかまりがなく安らかで落ち着いた様子を指す。平穏で動揺せず、物事に動じない穏やかな心境や状態を表す。
あるべきものが欠けている状態を指し、不完全さを表す。また、文章や書物において文字が欠落していることを意味する場合もあり、「欠如」と表記されることもある。
思い通りにならないこと。特に、金銭の面で都合がつかず、生活や家計が苦しい状態を指す。
「匹如身」は、財産や家族を持たず、ただ一人の身であることを指す。また、そのような状態にある人を表すこともある。「単己」とも書き、「するつみ」とも読む。
「如何様」は「いかよう」と読み、物事の様子や状態を尋ねる際に用いられる語で、「どのような」「どんなふうに」という意味を表します。謝罪や対応の仕方を示す文脈で使われることが多く、「如何様にも謝罪いたします」のように、あらゆる方法で誠意を示すという含みを持たせることができます。なお、「いかさま」と読む場合は、偽りや不正を意味する別語となるので注意が必要です。
如雨露は、草花などに水を注ぎかける際に用いる道具を指す。語源はポルトガル語に由来するとされる。「如露」の表記もあり、その場合「ジョロ」と読むこともある。
体を深くかがめて謹み慎む様子を表す。特に敬意を表す場面や厳粛な状況で、恭順の態度を示す際に用いられる。
「泣血漣如」は、『易経』の「屯」の卦に見られる四字熟語で、血の涙を流すほどに深く悲しみ、その涙が途切れることなく連なって流れ落ちる様子を表します。困難な状況にあり、心に積もった悲嘆が止むことなく続く、非常に痛切な心情を形容する表現です。
「意気自如」とは、困難や圧迫に直面しても心が動揺せず、元来の気力や気概を失わずに平然としている様子を表す四字熟語である。「自如」は何事にも動じない平穏な状態を意味し、「自若」と同義である。『史記』李将軍伝に由来し、不屈の精神を指す。
面目躍如とは、世間からの評価が高まり、名誉や体面が生き生きと輝きを増す様子を表す。また、名声や評判が以前にも増して向上することを意味する。「躍如」は活発に活動するさまを示し、この語は「めんぼくやくじょ」とも読まれる。
迷悟一如とは、仏教において迷いと悟りが本来は同一のものであることを示す語である。迷うことも悟ることも、その本質においては一体であり、二つの別々の境地ではないという思想を表す。
如法暗夜とは、まるで法(のり)に従うかのように暗い夜という意味で、月も星も見えず、深く暗闇に包まれた様子を表す四字熟語です。
如意宝珠とは、仏教においてあらゆる願いを叶えるとされる宝珠のことで、如意宝とも呼ばれる。転じて、非常に珍しく価値のあるものや、思いのままになる物事の喩えとして用いられる。
天保九如は『詩経』の「小雅・天保」の篇に由来する四字熟語で、天が君主を保ち、九つの「如」の句をもって、その福が山や阜、岡や陵のように永遠に続くことを讃えた表現である。転じて、長寿や繁栄を祝う吉祥の言葉として用いられる。
大智如愚とは、真に優れた知恵を持つ者は、外見は愚かに見えるものだという意味を表す四字熟語である。蘇軾の「賀欧陽少師致仕啓」に由来し、深遠な英知を内に秘めながら、それを誇示せず、むしろ謙虚で素朴な振る舞いをする様を指す。