木の枝の先端、特に若く細い枝の先を指す語。樹木の最も末端にあたる部分を表し、梢や枝先といった意味合いを持つ。
末殺(うらごけ)とは、樹木の幹が梢(こずえ)の付近に至り、その太さが急激に細くなる状態を指す語である。「梢殺」とも表記される。
末広とは、末端に向かって徐々に広がる形状を指す。この形状から転じて、扇や扇子を意味し、特に儀式用で先端が少し開いた中啓と呼ばれる扇も含まれる。また、将来に向かって次第に栄えていく様子を喩える表現としても用いられる。
末濃とは、染め物の技法の一つで、上端を淡く染め、下に向かうにつれて次第に濃くなるようにぼかしを施したものを指す。裾濃とも表記される。
地位や技量などが劣る者、また取るに足らない者を指す。多くは自分自身を謙遜して言う場合に用いられる。
末期とは、物事が終わりに近づいた時期を指す。特に病気や時代など、一定の過程を経た事象の最終段階を表し、末葉や初期と対比される概念である。読み方は「マッキ」であり、「マツゴ」と読む場合は別の意味となる点に注意を要する。
物事の終わりに位置する部分を指す。文章や数字列など、連続するものの最後の箇所を表す際に用いられる。
末期とは、人の一生が終わりに近づき、死が間近に迫った時期を指す。特に臨終の際を意味し、この語は「まっき」と読む場合とは異なる概念である。
末筆とは、手紙や文書の末尾に添える挨拶文を指す。主に結びの言葉として用いられ、相手の健康や幸福を願う表現が続くことが多い。
末寺とは、本山や本寺の支配下に置かれ、その管理や監督を受ける寺院を指す。
末法とは、釈迦の入滅後に訪れるとされる時代区分の一つで、正法・像法に続く最終段階を指す。この時期は仏法が次第に衰微し、人々の信仰心が薄れるとされる一万年間をいう。転じて、世の中が乱れ衰えた末世や末の世を意味することもある。
末葉とは、ある時代の終わりに近い時期を指し、例えば「十九世紀末葉」のように用いられる。また、血筋において遠い子孫、すなわち末裔を意味する場合もある。「ばつよう」と読まれることもある。
末流とは、川の下流を指すほか、物事の衰退した段階や、学問・芸道などで正統から外れた流派を意味する。また、血筋の遠い子孫や、時代の終わりの時期を表すこともある。
末世とは、道徳や秩序が廃れて乱れた世の終わりの時代を指す。また、仏教においては仏法が衰微した末法の世を意味する。「まっせい」とも読まれる。
末席とは、座席の序列において下位に位置する席を指す。特に公式の場や儀式などで、身分や地位の低い者が着く席を意味し、「末席を汚す」という表現は、自分がその場に同席することを謙遜して述べる際に用いられる。また、「ばっせき」と読む場合もある。
末路とは、人生の終わりの時期を指し、特に晩年の境遇を表す。また、転じて道を踏み外した者が辿り着く悲惨な結末や、堕落しきった状態を意味する。
物事の本質から外れた些末な部分や、取るに足らない事柄を指す。
末代とは、遠い未来の時代や子孫の時代を指す言葉であり、また人が亡くなった後の世を意味する。人の一生は一代限りであるが、名声は後世にまで伝わるという「人は一代、名は末代」という言い回しに用いられる。
末端とは、物の先端や端の部分を指す。また、組織や機構において中心から最も遠い位置にある部分を意味する。
巻末とは、書物や巻物などの終わりの部分を指す。巻頭や巻首に対応する語であり、付録や索引などが置かれる箇所をいう。
始末とは、物事の最初から最後までの経緯や成り行きを指す。また、好ましくない結果や結末を表すこともあり、さらに、物事をきちんと処理したり片付けたりすることを意味する。
粗末とは、物の品質や仕上げが雑で劣っている様子を指し、粗悪で簡素な状態を表す。また、物事を大切に扱わず、丁寧さを欠いた扱い方をすることも意味する。
期末とは、定められた期間の終わりの時点を指す。例えば学期や事業年度などの区切りの最終時期を意味し、「期末テスト」のように用いられる。対義語は「期首」である。
一年の終わりの時期を指し、特に年末の慌ただしい雰囲気や冬の季節感を含めて言う語。年の暮れを意味する「歳晩」や「歳暮」とほぼ同義で用いられる。
端末とは、物事の終わりの部分を指す。また、コンピューターシステムにおいて、利用者が直接操作する入出力機器を総称する略語としても用いられる。
末黒とは、春に行われる野焼きの後に、草木が焦げて黒くなっている様子を指す。また、そのような状態の草木そのものを表すこともある。この語は、焼かれて残った草木の先端(末)が黒く見えることに由来している。
末梢とは、枝の先端やこずえを指す。また、物の端や先端を意味し、転じて取るに足らない些細な事柄を表すこともある。例えば「末梢神経」のように用いられ、細部に過度に拘ることを戒める際にも使われる。
些末とは、物事の本質から見て重要性が低く、取るに足りない様子を指す。些細な事柄に過度にこだわる場合などに用いられ、表記としては「瑣末」と書くこともある。
劫末とは、仏教の世界観において一つの劫(非常に長大な時間の単位)が終わりを迎える時期を指す。この世が破壊され、次の劫が始まるまでの移行段階を表す語である。
毫末とは、毛髪の先端や筆の穂先のように極めて微小な部分を指す。転じて、ごくわずかであることや、きわめて細かい事柄の喩えとして用いられ、些細なことでも軽視できないという意味を含む。
瑣末とは、些細で取るに足りない事柄を指す。物事の本質から外れた細かい部分や、重要でない末節に言及する際に用いられる。些末とも表記する。
人情が薄れ、風俗が乱れ、道徳が廃れた世の中を指す。特に世の秩序が衰え、人々の心が荒廃した時代をいう。
不始末とは、物事の後始末が行き届かず、不注意や怠慢から好ましくない結果を招くことを指す。また、周囲に迷惑をかけるような無分別な行為や不行跡を意味することもある。
末摘花はベニバナの異称であり、その名は夏に茎の先端から順に花を摘み取る習性に由来する。紅花とも呼ばれる植物である。
断末魔とは、生命が終わるその瞬間を指す。特に、死に際に味わう激しい苦痛やもだえを表す。この語は、仏教典『俱舎論』に由来する梵語「末魔」に基づいており、身体の急所を意味し、そこに触れると耐えがたい痛みによって死に至るとされることから、死の苦しみを表現する言葉として用いられるようになった。
紀事本末とは、歴史書の編纂方法の一つで、特定の出来事を主題として立て、その原因から結果までを一貫して記述する形式を指す。紀伝体や編年体と並ぶ歴史叙述の様式であり、事件の経緯をまとめて理解しやすくすることを特徴とする。
水辺の葦の先端に営まれる巣のように、住居が極めて不安定で危険にさらされている状態を指す。『荀子』に典拠を持つこの語は、絶えず脅威に直面し、落ち着いた暮らしを得られない境遇を喩える。
万劫末代とは、仏教の「劫」という極めて長い時間の単位に基づき、途方もなく長い未来の時代を指す四字熟語である。万劫は無数の劫を意味し、末代は後の世を表す。合わせて、永久に続く未来、果てしないほどの長い歳月を表現する。
末法思想とは、仏教における歴史観の一つで、釈迦の入滅後、教えが次第に衰えていく過程を正法・像法・末法の三時に分け、末法の世には仏法が廃れ、世の中が乱れるとする考え方である。
「橦末之伎」は、張衡の「西京賦」に見られる四字熟語で、高く聳える竿の先端で行われる曲芸や軽業を指す。転じて、非常に危険で際どい芸当や、ぎりぎりの状況で成し遂げられる巧妙な技を喩える表現として用いられる。
秋毫之末とは、秋の獣の毛の先端のように極めて微小なものを指す。『孟子』梁恵王篇に由来し、物事のごく細かい部分や、ほとんど感知できないようなわずかな差異を表現する際に用いられる。転じて、些細なことや取るに足らない事柄の喩えとしても使われる。