体の一部または全体が自分の意志通りに動かせなくなる状態を指し、特に病気や怪我の後遺症として現れることが多い。半身不随や四肢麻痺などの形で用いられ、運動機能の障害による日常生活の制限を意味する。
付随とは、ある事柄に伴って生じる、またはそれに従属する事態を指す。主たる事象に付き従う形で発生する関連事項を表し、事業拡大に付随する問題のように、主要な動きや変化に連動して現れる要素を意味する。表記としては「附随」とも書かれる。
気随とは、他人の意向や周囲の状況を顧みず、ひたすら自分の思いのままに振る舞う態度や、その様子を指す。わがままや気儘に近い概念である。
附随とは、主となる物事に伴って生じる関連事項を指す。ある事象や行為に付き従い、それと不可分の関係にある様を表す。表記としては「付随」とも書かれる。
自由気ままに振る舞うさま。外部からの制約や規則に縛られず、自分の思いのままに行動することを表す。
身分や地位の高い人に付き従って行動する者を指し、特に外交使節団に同行する者をいう。
随喜とは、仏教において仏の功徳をありがたく感じる心、あるいは他人の善行を見て心から喜びを共にすることを指す。転じて、非常に喜び感謝する気持ちを表す際にも用いられる。
適当な時機を見計らって行うさまを表し、また必要な際にはいつでも対応可能であることを示す。
随従とは、主に身分の高い者や目上の人に付き添い、その行動に従って共に動くことを指す。また、他者の意見や意向を受け入れ、それに従うという意味合いでも用いられる。
随身とは、目上の人に付き従って外出することを指し、またその供をする人をも意味する。かつては貴人の外出に際し、武装して護衛を務めた近衛府の武官を指す場合もあった。読み方は「ズイシン」ともされる。
随想とは、心に浮かぶままに思いを巡らせることであり、またそのような自由な思索の過程や結果を文章にしたものを指す。特定の形式や主題に縛られず、折に触れて感じたことや考えたことを気ままに記録した随筆や感想文などがこれに当たる。
随伴とは、ある人や物事に付き従って行動することを指し、例えば要人の外出に同行する場合などに用いられる。また、ある事柄が生じるに当たり、それに付随して自然と起こる事態を表す際にも使われる。
見聞や体験、あるいは心に浮かんだ感想などを、形式にとらわれず自由な形式で書き記した散文の一形式。エッセイとも呼ばれる。
「随分」は、程度が普通をはるかに超えている様子を表す。例えば「随分暑くなった」のように、予想以上に甚だしい状態を示す。また、相手の言動を非難する際に「随分な言い方だ」と用い、ひどいさまを強調する。古風な表現としては、別れの挨拶などで「随分お大事に」のように、心を込めて念を押す意味でも使われる。
人に寄り添い、その後に従って行くことを指す。また、そのようにして付き従う者を指す場合もある。
「随徳寺」は、後始末を顧みずに姿を消すこと、すなわち「ずいと行く」という意味を、寺の名前に掛けた洒落た表現である。例えば「一目山随徳寺」のように用いられ、突然行方をくらます行為を婉曲に示す。
銜尾相随とは、馬の列が互いに口にくわえた尾に続いて進む様子を表す四字熟語で、多くのものが連なり続いて絶えないさまを指す。転じて、物事が次々と連続して途切れないことや、人々が列をなして続く様子にも用いられる。
管仲随馬は、『韓非子』に由来する故事成語である。管仲が戦から帰る途中で道に迷った際、老馬は道を覚えているという言い伝えに従い、馬を放ってその後に従い、無事に道を見出したという故事に基づく。本来は、管仲のような賢者ですら馬の知恵に頼るのだから、人は聖人の知恵を仰ぐべきであるという戒めの意を表す。転じて、先人の経験や知恵を尊重することのたとえ、また人にはそれぞれ得意とする分野があることのたとえとして用いられる。
嫁鶏随鶏は、雌鶏が雄鶏に従う様子から転じて、妻が夫に従い、その境遇に安んじて生きることを喩えた四字熟語である。
意のままに筆を進め、思いのままに文章を綴ることができる境地を指す。心に浮かぶ考えがそのまま自然に筆先に表れ、自由闊達に表現できる様をいう。
百縦千随は、中国元代の戯曲『竇娥冤』に由来する四字熟語で、数多くの罪状や過ちを列挙する様子を表す。転じて、ありとあらゆる非難や悪口を浴びせること、あるいは無数の罪を着せられることを意味する。
『法華経』方便品に由来する四字熟語で、仏が衆生の機根や状況に応じて適切な教えを説くことを意味する。相手の理解力や置かれた環境に合わせて、最も相応しい方法で仏法を説き示すという、仏の巧みな教化のあり方を表している。
随喜功徳とは、他人の善行や功徳を見聞きして喜び、自らもそれに倣おうとする心の働きを指す仏教用語である。『法華経』「随喜功徳品」に説かれるように、この心を起こすこと自体が大きな功徳を生むとされる。
仏教用語で、釈迦が衆生の能力や理解に応じて適切な教えを説くことを指す。相手の機根に合わせて法を説くという意味であり、『法華経』などに見られる思想である。