自我とは、自己を他者や外界から区別する意識の主体を指す。哲学においては認識や行為の主体としての自己を意味し、一般には自己への執着や強い自意識を表す際にも用いられる。
我慢とは、不快な状況や欲求を耐え忍ぶことを指す。また、他人の過失や欠点を寛容に受け止め、許容する意味も持つ。さらに、自己を過大評価し他者を見下す高慢な態度を表す場合もある。
没我とは、ある物事に深く没頭し、自己を意識する状態を超越することである。その結果、我という感覚が消失し、対象と一体となるような境地に至ることを指す。
無我とは、自己への執着や私欲を離れた状態を指す。また、物事に深く没頭して自我を忘れる心境も表す。
「我等」は、一人称複数の代名詞として、話し手を含む複数の人々を指す。また、文脈によっては相手方の複数を示す二人称としても用いられる。古風な響きを持つ表現である。
ジガバチはジガバチ科に属する蜂の一種で、全身が黒く細身の体形をしており、腹部の基部が特に細くくびれているのが特徴です。夏季に地中に巣穴を掘り、シャクトリムシなどを捕獲して幼虫の餌とします。その名は、獲物を巣穴に運び入れる際の羽音を「ジガジガ」と聞きなし、この音が虫を蜂に変える呪文であると古人が考えたことに由来します。別名としてコシボソバチやスガルとも呼ばれます。
我利私欲とは、自己の利益や欲望のみを追求することを指す。他人のことは顧みず、自分本位の考え方や行動に捉われている状態を表す。
我利我利とは、自己の利益のみを追求し、道理をわきまえずに無理を押し通す様を表す四字熟語である。
我武者羅とは、物事の道理や周囲の状況を顧みず、ただひたすらに強引に突き進むさまを指す。
我慢勝他とは、仏教の教えにおいて、自分自身の欲望や煩悩を抑え、他者に対して寛容であることが、結局は自分自身の修行や成長につながるという考え方を表す四字熟語です。
我田引水とは、物事を自己の都合に合わせて取り計らうことを意味する。自分の田にのみ水を引き入れる様子から転じて、言動や判断を私利私欲に基づいて行うたとえとして用いられる。
物我一体とは、自己と外界の事物との区別がなくなり、一体となる境地を指す。主に仏教や老荘思想において、悟りの状態や自然との融合を表す際に用いられる。
無我夢中とは、ある物事に深く没頭し、我を忘れるほど熱中している状態を指す。仏教語の「無我」に由来し、自己への執着を離れて対象に心を奪われる様を表す。周囲の状況や時間の経過を顧みず、そのことだけに集中しているさまをいう。
仏教経典の冒頭に用いられる定型句で、「このように私は(仏から)聞いた」という意味を表す。釈迦の教えを直接聞いた弟子が、その内容を確かに伝承したことを示す証しの言葉として用いられる。