夢に見たことが現実に起こることを指す。また、現実に起こったことを夢に見た場合にも用いられる。
夢で見た内容とは逆のことが現実に起こる夢を指す。正夢の対義語として位置づけられる。
夢のように現実離れした愚かな考えや、心の迷いを指す。
夢路とは、夢の中の道筋や、夢を見ている状態そのものを指す言葉である。夢の世界を彷徨うかのような、現実と幻想の狭間にある感覚や、睡眠中に体験する一連のイメージの流れを表す。
夢枕とは、睡眠中に神仏や故人が枕元に現れて何かを告げる「夢枕に立つ」ことを指す。また、夢を見ている際の枕元、すなわち夢の中の情景そのものを意味することもある。
夢の中で見たり思ったりすること。また、現実離れした空想や願望を心に描くこと。かつては夢を通じて神仏の啓示を受ける意味もあった。
夢中とは、ある物事に深く心を奪われ、我を忘れて没頭している状態を指す。また、かつては夢を見ている最中、つまり夢の中にいることを意味する用法もあったが、現代では主に前者の意味で用いられる。
夢と現実の区別がつかない状態を指し、またそのような状態にあることを表す。夢を見ているのか現実の出来事なのか判然とせず、意識が朦朧としている様子をいう。
夢寐とは、眠っている状態、あるいは眠りの中で夢を見ている時間のことを指します。転じて、何かを心から切望し、寝ている間も忘れられないほど強く思う心情を表す際にも用いられます。
夢遊病とは、睡眠中に無意識に起き上がり、歩行や動作を行った後、再び眠りにつくが、目覚めた後にはその行為を全く記憶していない状態を指す。夢中遊行症や夢遊症とも呼ばれる。
邯鄲之夢とは、人生の栄華富貴がはかなく儚いものであることを喩えた故事成語である。中国唐代の小説『枕中記』に由来し、盧生という人物が邯鄲の宿で道士から借りた枕で眠り、その夢の中で栄達と富貴を極める一生を送るが、目覚めればただの一炊の夢に過ぎなかったという逸話に基づく。
華胥之夢とは、古代中国の伝説上の理想郷である華胥の国を夢に見ることを指し、転じて心地よい夢や楽しい夢を見ることを意味する。また、昼寝をして夢を見ることを喩える表現としても用いられる。出典は『列子』黄帝篇にある。
役夫之夢とは、『列子』周穆王篇に由来する四字熟語で、人生における栄華や富貴が夢のように儚いものであることを喩えた表現である。転じて、現実では満たされない欲望や願望を、夢の中で充足させることを意味する。
栄華の夢とは、富や名声、華やかな生活を手に入れた自分を見る夢のことであり、また、そのような繁栄が儚いものであることを夢に喩えて表現した言葉です。中国唐代の伝奇小説『枕中記』に由来し、現世の栄華が結局は夢の如くはかなく消えゆくことを示唆しています。
一炊之夢とは、飯が炊き上がるほどの短い間に見る夢のことで、この世の栄華や人生のはかなさをたとえた四字熟語である。中国唐代の『枕中記』に登場する盧生が、仙人から借りた枕でわずかな眠りについた間に五十年の栄華を夢見たが、目覚めると炊きかけの粟飯がまだ煮えていないことに気づき、人生の虚しさを悟った故事に由来する。
人生の儚さを春の夜に見る夢に喩えた表現で、人の栄華や繁栄が束の間に過ぎ去る様を表します。
盧生之夢とは、栄華を極めた人生が実は束の間の夢であったという故事に基づく四字熟語で、一炊之夢と同義である。唐代の伝奇小説『枕中記』に登場する盧生が、邯鄲の宿で道士から枕を借りて一眠りする間に数十年の栄達を夢見たが、目覚めると炊かれた黄粱の粥がまだ煮えていないことに気づくという逸話に由来する。人生の儚さや世俗の栄華の空しさを喩える表現として用いられる。
夢賚之良は、『史記』「殷紀」に由来する四字熟語である。殷の高宗が夢の中で賢者を見出し、その人物を探し求めて傅説を登用したという故事に基づき、君主が夢のお告げによって賢才を得ることを意味する。転じて、優れた人材を求めて手に入れることの喩えとして用いられる。
夢中説夢とは、夢の中でさらに夢について語るという意味から、二重に虚妄な言説を指す仏教用語である。転じて、根拠のないたわごとや、まったくのでたらめを言うことを喩える表現として用いられる。